毎年この時期になると戦争関連の特集がよく組まれる。戦争の悲惨さを後世に伝えていく目的のドラマから、戦争の事実確認ドキュメンタリーまで様々な番組を見かける。
ドキュメンタリーを見ていると以下のような紹介をよく見かける。
・そもそも日米の国力差は歴然で勝ち目のない戦いだった。
・それを認識していない首脳部が戦争へと国を動かした。
・一部の良識派(山本五十六など)は戦争に反対した。
実際に戦争に至る経緯を正確に捉えるには、宇垣軍縮あたりから見ていかなければならず、この記事で説明するのは割愛して(また改めてするかも?)、今回は1つ目のポイントの”勝ち目のない戦いだった”に絞って検証していきたい。
日米の国力差について
まず当時の日米国力差を見てみると、最も差の小さい造船能力でも4倍の差があり、とても比較できるものではなかった。自分が1隻沈む間に4隻を沈めて帳尻があう・・・勝ち目があるようには思えない。
ではなぜ開戦に踏み切った
しかしこの国力差は良識派だけでなく首脳部も認識していた。ではなぜ国力に勝る相手に戦いを挑んだのか?現代に言われるように自殺行為だったのか?
これを紐解くためには以下の3つのポイントが鍵となる
・現有戦力では有利
・国力差があるといっても日露戦争よりはましだろう
・ドイツの勝ち馬に乗る
現有戦力では有利
先程工業力では日米間に歴然の差があると述べたが、1941年時点の軍事力は日本のほうが有利で、短期決戦であれば勝ち目があると考えられた。
特に空母などの大型艦船は建造開始→就航までに年月を要することから、開戦後もしばらくは日本有利なことが見込まれた。実際に日米の稼働空母数が逆転するのは1943年に入ってからのことである。
日露戦争に比べればマシだろう
上記表の通り日露開戦時の彼我の国力差は10倍ほどあり、10倍の敵に勝った成功体験が、楽観的な見通しを生み出したと考えられる。
ドイツの勝ち馬に乗る
3つ目のこのポイントが最も重要な要素になる。”アメリカには勝てないけど、ドイツがソ連を打倒すれば有利な条件で講和できるのではないか”という見通しがあった。
ドイツは破竹の勢いで欧州各国を手中に収め、41年6月に始まったソ連侵攻でも快進撃を続けていた。ソ連が崩壊すれば英独間の講和が成立する。つまり対米英戦をソ連崩壊までに始めれば、英独間に紐づく形で有利に講和できると考えたわけだ。(逆に言えば英独講和が成立したあとでは、米英との外交対立を解決する手段が無くなってしまう)
まとめ
・日米間の国力差は大きく単体かつ長期戦では勝ち目がなかった
・しかし短期的には有利な条件で戦うことができた
・またドイツがソ連を短期のうちに打倒し、有利な条件で講和できる見通しがあった
しかし対米戦を開始した41年12月8日に、ソ連はモスクワ正面で反攻作戦を開始し、独ソ戦は泥沼化していくこととなる。日本だけでなく英米も独ソ戦のドイツ勝利を予想していたことから、日本の見通し自体の誤りを批判するのは酷だろう。しかしドイツをあてにした開戦は自国の命運を他国に預けることに他ならず、満州事変から続く外交見通しの甘さがここでも露呈しているように思える。