丸くなる京都大学
京都大学・・私の母校でもある同大学を私は長年誇りに思ってきたし、同校のOBで良かったなと胸を張って言える。
一方で昨今の京都大学の姿勢には疑問を感じられずにはいられない。
学問の自由は何処へ・・
京都大学は建学の精神に「自由の学風」を謳うように、大学の独立と学問の自由を志向してきた。官僚育成のために設立さえた東京大学では「責任」というワードが用いられており、両大学の志向の違いを如実にあらわしている。
しかし昨今は大学の締め付けが厳しく、些事でも停学処分をくだす事例が出ている。
自由とは「やってはいけないこと以外は何をやっても良い」ということだと筆者は考える。そうした環境下では、柔軟な発想やアイデアが生まれ世の中を変える大発見を生み出しやすい。そのため京都大学はノーベル賞をはじめ学術界で大きく活躍できているのだ。
自らのアイデンティティを捨てるのか?
即ち自由の学風を捨てるということは、京都大学の存在意義たる「研究者を育てる機関」そのものを捨てることになり、全国で唯一無二の存在だった「自由な大学」を捨てることにもなるのだ。
オンリーワンの地位を捨てれば、それは大学序列/順位の争いに組み込まれることになる。現在の「京都大学は京都大学以外とは比較できない」状況から「日本で○番目の大学」という地位に落ちてしまう。
尖ってていいじゃない
京都大学には是非ともかつてのようにわが道行く大学に戻っていただきたい。昨今は文科省からの介入も大きいそうだが、それこそ大学は大学の個性を尊重し、それぞれの長所を活かして競争すべきだ。決して文科省の護送船団方式の餌食にされてはならない。